いつだって健気に推したい。

 

 

 

あけましておめでとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あまりにも遅い、新年の挨拶ですね。

冬眠でもしてたんか???と言われても可笑しくないぐらい更新してなかった。

まあ特に書きたいことが無かっただけで、推しを降りた訳ではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても最近、推しを推すことがちょっとだけ面倒臭くなってきたような気がする。

推しが面倒臭いとか、推しがヤラカシタとかそういうのでは無いし、推し関連で揉めたとかでもない。

 

 

 

 

 

 

 

…シンプルに私だけ波に乗れてないんだよ。

時代は令和なのに、私はまだ平成にいる。

ただそれだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私にはあまりにも窮屈過ぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイペースに、いつだって健気に、

 

ただし期限があるから、推しは推せるうちに推す。

 

 

 

 

これからとか、永遠とか、ずっととか、

未来の言葉は受け流して、今の推しを推す。

 

 

 

 

 

久しぶりに書いたと思ったら、相変わらず大したこと言えないけど、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつだって健気に推したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近推しが売れている気がする

 

 

 

 

 

なんとも失礼なタイトルで始まったブログ。

単刀直入に言うと、タイトルの通り

 

 

 

 

最近推しが売れている気がする

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんてったって探さなくても見れる。

数年前は探さないと見えなかったし、探しても見えなかった時もあった。

そもそも出てない時もあった。

 

 

 

それが今じゃ、「見つけた!」って探さなくても見えるんだよ。

露出が増えた。明らかに増えた。

 

 

 

 

「〇〇見たよ!」と声をかけられることも増えた。

推しの話を、相手からしてもらえる世界になった。

嬉しいけど、ちょっとだけ不思議な気持ちで、

幸せだけど、ちょっとだけ不安だったりもする。

 

 

 

推しが推されている(かもしれない)現実に慣れてしまうのは怖い。

永遠に存在する訳じゃない推しに、全力を尽くして応援するのが怖い。

勝手にビビっている。勝手に。

 

 

でも、明日推しがいなくなるかもしれないのなら、

推せる''今''を全力で生きるしかない気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ正直自分でもよく分からないが、一つ言えることは…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近推しが売れている気がする

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あと1時間ぐらいしたら寝ようかな。

 

 

 

推しを推すこと

 

 

 

 

 

 

いやまず''推す''ってなんぞや。

そこから始まるよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

推す(オス)とは

人や事物を、ある地位・身分にふさわしいものとして、他に薦める。推薦する。

 

 

(他にも意味はあるが面倒くさいのでこれだけで許して欲しい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…まあ私の場合、このブログで推しの名前を言っていないから、''推し''という言葉を使っているだけであって、日常生活で「今日も推しを推してんなあ〜」と言ったりはしない。

 

 

普通に「○○くんを応援してる」って言うし、もっと崩して言えば「○○担」って言う。

 

 

初対面の人には自らヲタクだと言うことは申告しないし、ヲタクとバレてしまっても誰を応援しているかは言わない。あわよくばカモフラージュを使って別の人のファンのフリをしたりする。

 

推しのヲタクで居ることが恥ずかしい訳じゃない。

恥ずかしさは1ミリたりとも感じていない。

赤の他人に私の情報を軽々しく晒してたまるもんかと思っているだけだ。

 

 

私は''推しを推すこと''をひっそり、自分のペースで楽しみたい。

 

このご時世、ファンも推したちも''数字''を気にしすぎているような気がする。

確かに''数字''は重要で、今後の活動にも響くということは重々承知だ。

だか、ファン同士で''数字''を気にするあまり、「もっと再生回数を伸ばして!」という投稿をよく見かけるようになった。

 

 

 

私は何かを強制されるのは好きじゃない。

私の''好き''を、知らない誰かにとやかく言われる筋合いはないし、私は私なりの形で応援していたい。

 

 

''推しを推すこと''が義務的になってしまうと、心が参ってしまう。

癒しの時間なはずなのに、義務的だなんて悲しいじゃない。

 

 

 

 

 

 

…と、ブログを書き始めたものの、特に書き留めたいこともないしこれ以上この話題を膨らますことは今の私には出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明日は祝日だから夜更かしでもしようか。

推しとは

 

 

 

 

久しぶりにはてブロをかいてる。

推しを推してなかった訳では無い。

心身共に参ってた…というのが正解か…?

 

 

 

 

 

 

 

仕事で嫌なことがあり、休憩時間に推しを見た。

軽い気持ちで見た。

''癒されるかな''と思って、軽い気持ちで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泣いた。声を押し殺して泣いた。

推しが歌ってるところを見ただけなのに、

涙が溢れた。

今思えば相当参っていたんだなと冷静に分析出来るが、あの時の私は泣くことしか出来なかった。

 

 

上司に八つ当たりされ、嫌味を言われ、しんどい仕事の休憩時間に推しを見ただけで泣けたのだ。

 

 

 

 

 

推しとは。

 

 

 

 

 

益々謎が深まった。

推しとはいったい私の何なんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

考えても答えが出ないので今日は寝ることにする。

 

 

 

 

 

 

推しと仕事

 

 

 

 

私にはニート期間があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

普段は推しをモチベーションにし、仕事をしていた。

帰ったら録画を見て、SNSをチェックし、過去の映像を見たりもした。

疲れている体はたちまち癒され、心も晴れて最強で最高のストレス発散方法だった。

だと思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

でもそれは心身共に健康な時だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事を辞め、精神的に少し不安定になったある日

いつものように元気を貰おうと推しを見た。

 

 

 

元気になれると思ってたし、元気になるつもりでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも実際に感じたのは虚しさだった。

心が空っぽになった気分だった。

 

 

 

 

 

 

輝く推しとニートの私。

比べても仕方ないけれど、比べてしまう現実。

「推しはこんなに頑張ってるのに、私はニート

この気持ちがしんど過ぎて、推しを見てるのに全然楽しくなかった。

 

 

 

 

 

凄く自分勝手だが、その時は大好きな推しすらも見たくなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

心身共に健康でないと、推しのアンチになってしまうとまで思った。

いつも気にならないところが気になったり、推しのマイナスな部分を積極的に探してしまう自分がいた。

 

 

 

生憎推しのアンチにはならなかったが、

仕事を辞めただけで、少し不安定になっただけで大好きな推しが推せなくなるとは思ってなかった。

 

 

 

 

 

 

ふと思い出した少し前の話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お仕事も、推し事も、健康第一。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はいつもより疲れたから早めに寝ることにするよ。

 

 

 

 

推しとの距離

 

 

 

 

 

 

何度かコンサートに足を運んで思ったこと。

 

 

それは、推しとの距離についてだ。

 

 

 

 

 

 

 

私は基本的に推しの視界には入りたくない。

運がよく何度か前列で推しの目線あたりの席に座ったことがあるが、いざ本人が目の前に来ると怯んでしまう。

 

 

”怖い”という感情が勝ち、一緒に行った友人に怒られるくらい何も出来なくなる。

 

 

前列を見ると可愛く手を振ったり、名前を呼んだりしている子もいる。

だが私にはなぜか出来ない。

いや、出来なくなったのだ。

 

中学~高校1年生の時はまだ名前も呼べたし、

手を振って自分の存在を必死に推しにアピールも出来た。

 

 

でも今では推しが前に来ると、団扇で顔を隠して推しが通り過ぎるのを待ってしまう。

 

 

いつからこうなったのか分からないが、ここ2.3年はずっとこんな感じだ。

せっかく推しが前を通っても団扇で顔を隠したり、別の子を見たりしてしまう。

 

冷静に考えて勿体無い。

しかも気持ち悪い。

いったいどういう感情なのか自分自身理解に苦しんでいる。

 

 

 

 

しかも一番厄介なのは、”出来るだけ近くで推しが見たい”という気持ちもあるということだ。

 

 

 

 

 

 

いやどんだけワガママな話だよって。

 

 

 

 

 

 

 

 

出来ることなら推しの視界に入らないところで、誰よりも近くで見たいと思っている。

少し前までは、前列でも双眼鏡を使って推しを見ていたぐらいだ。

※友人に「この距離で双眼鏡いる?折角なら肉眼で見たら?ちょっと気持ち悪いし。」と言われてからは、双眼鏡使用頻度は減らした。
 

推しのどこを見ているかと聞かれると難しい。

顔ももちろん、踊っているときの手先を見たりもする。

何よりも、自分が応援している大好きな推しが同じ空間にいて、同じ時間を共有していることに幸せを感じているので、1分1秒見逃したくはない。

 

 

…書いていて自分でも分からなくなってきた。

 

 

端的に言うと、

”推しは近くで見たいけど、推しには見られたくない”

 

 

 

以上!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…将来マジックミラー席が出来たらいいな。

 その席に座れば私は推しに怯まず、推しを見ることが出来るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

明日は休みだからいつもよりゆっくり寝ることにするよ。

 

推しが消えた日

これは元推しの話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は突然きた。

 

 

 

 

 

推しのいるコンサートに行ったはずだった。

 

 

 

 

 

その日、推しは居なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前日までは居た。

Twitterに流れてくるレポにも名前はあがっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

幕が開いて、一時停止。

私は有難いことにその公演を見るのは2度目だった。

だから推しがどこに立っているかなど大まかなことは把握していた。

 

 

 

本来推しが居るはずの立ち位置に、推しの姿は無かったのだ。

 

 

 

 

 

曲が変わった?人が変わった?

数分の間で頭をフル回転させて、1度見たあの時の推しを思い出した。私の記憶では確かに推しは、私の目線の先の立ち位置で踊っているはずだった。

 

 

私はわがままだ。

目の前の現実を受け入れようとはしなかった。

「あ、記憶違い?どの曲から出てくるっけ?」

自分の記憶が間違っていると言い聞かせたのだ。

 

 

 

 

 

その後も続くステージ。

何時になっても推しが現れることはなかった。

 

 

 

 

私には目の前の現実を受け入れる勇気はなく、

ただただ涙を流すことしか出来なかった。

 

 

 

昨日まで居たはずの推しが、居ない今日。

 

 

 

 

心当たりはあった。推しが居なくなることも予想はしていた。でもあまりにも突然すぎた。

 

 

 

残酷な世界だなと思った。

私は泣くことしか出来なかった。

 

 

 

あの日のことは今でも忘れられない。

あの時の友人の顔や、会場の雰囲気。

私と同じように、推しが居ないことを受け入れられず膝から崩れ落ちていく女性もいた。

私はその女性を見て、涙がさらに溢れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

''推しは推せるうちに推せ''

やっとわかったこの言葉の意味が。

 

 

明日死んでも後悔しない生き方をしようと心底思った日だった。

 

 

 

 

 

今日は寝不足なので早く寝たい。(まだ昼)

思い出したら泣けてくるこの話。

夢に出てきませんように。